野がもの行方

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ぜっさんお稽古中の清流劇場ですが。
何だかあっという間に2週間あまりに迫ってきたじゃありませんか。
きゃ~

私が演じるのは、豪商ヴェルレ家の執事、セルビー夫人。
のちにヴェルレ氏と結婚します。ヴェルレもセルビーも再婚同士。
セルビー夫人は、屋敷の切り盛りをしたりヴェルレ氏の世話をやいたり、ヴェルレの事業にも少なからず関わっていると思われ、
親切で明るく優しいお母さん的な人のような、その実ものすごく仕事や人のあしらいにも長けた、やり手のオンナって感じです。
しかも、多分モテている。でも過去には夫にDV受けたりしてるんでございます。
あまり本編に関係なさそうな情報ではありますが、こんな人です。参考までに。

今回は、ピンポイントでの出演で、毎回の稽古にいかに集中するかが勝負って感じです。
台詞もそんなにたくさんないのです。
しかし他の登場人物を翻弄するような役割を担っていたりします。


チラシ掲載のあらすじ等をこちらで。
ご興味持っていただけましたら、是非ぜひ、いらしてくださいね。

作家紹介
ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen 1828年〜1906年)
ノルウェーの劇作家・詩人。ノルウェー南西の港町シェーエンの裕福な家に生まれる。幼くして家は没落、1844年、造船の町グリムスタの薬局の見習いとなって自活。詩を書き始め、1850年、最初の戯曲『カティリーナ』を自費出版するも、売れたのは300部足らず。首都クリスチアニア(現オスロ)に移り、大学を受験するが失敗。第2作『勇士の塚』はクリスチアニア劇場が上演。1851年、西海岸のベルゲンに出来たノルウェー劇場の座付作者兼舞台監督となる。翌年、劇場からコペンハーゲン、ベルリン、ドレスデンの演劇視察に派遣される。1857年、首都のノルウェー劇場芸術監督に就任するも、5年後に劇場が破産、失業する。アル中で自殺未遂したとも言われ、1864年、国の奨学金と友人の援助で逃げるようにローマに移る。絶体絶命の境地で書いた劇詩『ブラン』(1866)で、一躍北欧随一の詩人と見なされ、その後、ドイツとイタリアに住む。1879年の『人形の家』は女性解放運動を進める作品として世界的な反響を呼び、新しいリアリズム劇作家として近代社会劇を確立。1884年『野がも』出版。1891年、27年間の外国生活に終止符を打って祖国に戻り、大歓迎される。晩年作品は象徴性を帯びてくるが、1900年動脈硬化症となり、1906年78歳で没。国葬。
代表的作品として、他に、『ペール・ギュント』『ゆうれい』『ヘッダ・ガブラー』『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』等がある。

あらすじ
物語は、豪商ヴェルレの館でのパーティーから始まります。これは、長く山中の工場で働いていた息子グレーゲルスが戻ってきたことを祝して開かれたもの。豪商仲間に混じって、グレーゲルスの旧友ヤルマール・エクダルも招待されています。ヤルマールはグレーゲルスと旧交を暖め、今は結婚して写真屋を営んでいることを話します。しかし、ヤルマールの結婚した相手が、昔ヴェルレ家に仕えていたギーナだと知ると、グレーゲルスは、全てが父ヴェルレの策略だと確信します。そこをうらぶれた姿の老エクダル(ヤルマールの父)が事務所から出てきて通り過ぎていきます。この老エクダルはかつてヴェルレと山林事業を共同経営していましたが、国有林伐採の不正が発覚し、その罪を一人で背負わされたのでした。以前は森で熊9頭を仕留めたこともある老エクダルでしたが、刑務所から出てきた時には腑抜けとなっていて、今はヴェルレが世話する筆耕(原稿書き)の仕事と、家の屋根裏に飼っている動物たち相手の狩りごっこに満足している有り様です。一方、ヴェルレは罪を免れた後も事業を成功させ、また裏では女中ギーナと愛人関係になっていました。そして時が経ち、ヴェルレは彼女をヤルマールと結婚させ、二人へ経済的援助を行っていました。父ヴェルレと決別することを決意したグレーゲルスは、翌日、貸し部屋があるというヤルマールの家を訪れて、部屋を借ります。ヤルマールとギーナの間には、一人娘ヘドヴィクがいましたが、彼女には遺伝性の視覚障害がありました。それを聞いたグレーゲルスは、同様に視覚を失いつつある父ヴェルレが、何も知らないヤルマールに、妊娠したギーナを押し付けたのではないかと疑い始めます。
ヤルマールの家の屋根裏にいる動物の中には、普通では飼育の困難な野生の鴨がいます。これは、ヴェルレが湖で狩りをした時、撃ち損じて水底に潜ったのを、彼の犬が引き上げてきたもの。それを老エクダルが譲り受けたのでした。この「野がも」をヘドヴィクは可愛がり、老エクダルは狩りの支えとしています。写真業は妻ギーナに任せて発明に精を出していると称するヤルマールも、時に父とこの屋根裏の狩りに精を出します。この一家の様子を見たグレーゲルスは、全くの欺瞞に包まれているヤルマールに真実を知らせるべきだと考えます。この家に同じく下宿している医者のレリングは、それをグレーゲルスの真実病だと言って、真実に耐えられない者を不幸にするだけだと諭しますが、理想主義に凝り固まったグレーゲルスは、ヤルマールに全てを明かしてしまいます。
社会問題を扱う劇作家として名をあげたイプセンの、一つの転機を示した傑作戯曲の上演。ご期待ください。

清流劇場 代表田中孝弥 ご挨拶
『野がも』というタイトルですが、野がもは出てきません。実のところ、野がもがいなくても、物語の根本にさえ問題はありません。では、そんな野がもが何故タイトルになっているのでしょうか。それにはやはり意味があって、「野がも」は何かを象徴しているのです。では何の象徴なのかというと、いくつかの説があります。『イプセンのリアリズム』(毛利三彌著)に依りますと、①野がもを特定の登場人物に結びつける見方。例えば、娘ヘドヴィクと野がもに共通した境遇を重ねるなど。②野がもという存在そのものが、私たち人間全ての象徴であるという見方。現代人の暮らしている状況そのものが、屋根裏で飼育されている野がもと重なり合うという考え方。③グレーゲルスのものの考えに寄り添っていく見方。つまり、野がもは人々が日々の暮らしの中で蓋(ふた)をしている「虚偽(うそ)」の象徴であるという見方。野がもはヤルマールの家の屋根裏にいると言うことになっているだけです。私たちは登場人物たちが語るそれぞれの「野がも」像から、イメージを膨らませていきます。ですから、このようにいろんな見方も出てくるのでしょう。そしてまた、野がもは鏡のような役割を果たしながら、反射し、登場人物の姿とそれぞれの存在の根拠を映し出してもいます。
この『野がも』に取り組むことは、すなわち、鏡の前に立ち、自分自身の本性を見つめることに他なりません。それは目を背けたくなるようなことでもあり、それでいてまた、今日一日を生きていくためにも、いくらかは肯定しなければならないことでもあります。イプセンはこの作品を喜劇と言ったそうです。大いに自分を笑ってやるつもりで、向き合ってみようと思います。


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